メロン、その他

ずいぶん前、今から5年以上前のことになりますから、自分も年を取るわけだなぁと月並な感想があるわけですが、今から5年以上前に、お付き合いしていた女の子がおりました。これは特に何かセンシティブな話題ではないので、安心して読み勧めていただければと思います。

 

私は当時、実家で暮らす大学生でした。それで、土曜の昼過ぎ頃に、その女の子が私の実家に遊びに来たときの話です。そのとき、私の両親は不在で、彼女は私の家にお土産としてメロンをひとつ持ってきてくれました。その日の夜、私の母がメロンに気付き、これは○○さんが持ってきてくれたんだよ、と説明すると、貧乏性なのか(我が家の食卓にメロンが並んだこと、片手で数えるくらいしか記憶がありません)、それともお土産という心づかいに感激したのか、母はえらく感動していたようでした。 私が実家を出て一人暮らしを始め、実家に戻ると、いまでも

「あの、メロンの子は、お元気?」

と、しばしば母に聞かれます。 母が私の交友関係についてどのようなイメージを抱いているのか定かではありませんが、元気かどうかで言われると、彼女はあれから今に至るまで普通に生活しているようなので、とりあえず、

「元気みたいだよ」

と返事しています。彼女と、その当時のように親密に(高頻度で)連絡を取らなくなった今も、母は私にそう訊ね続けています。

これは素朴な疑問なのですが、ハタチを過ぎた息子が、自分の不在時に、家に女の子を連れてきた、というときに、いったい女親というのは何を考えるものなんでしょうね?

もし、私と彼女が、一切連絡が取れない状態になって、FacebookTwitterなどで互いを認識できなくなって、生きているうちに永遠の別れを経験することになったとしたら、私の中ではそれなりに(覚えている範囲で)彼女の存在が残るわけです。一方で、私の母の中では、彼女は 「息子の友達(?どういう認識なんだろう?)であり、我が家にメロンを持ってきてくれた、いい子」 としてのみ、そのことを覚えている範囲で、存在が残ることになると思います。 生きているうちに生きた証を遺す、という考えに則れば、今後めちゃくちゃ何か起こらない限り、彼女は私の母の中で「メロン」の記憶オンリーの、完全ないい子としての存在であり続けるわけです。

こうやって、良い想い出だけが残る人間関係というのは、やろうと思ってもなかなかできることではないので、その点において 「あぁ、キズのない美しいハッピーエンドが、一つあったなぁ」 と、なんとなく安心したような気分になるのです。

ただ、彼女もとうぜん私の母の中だけの存在ではなく生き続けるわけで、なるべく幸多い暮らしを送っていてくれると、私は嬉しいですね、という、ただそれだけの話でしかありませんが。

 

上の話にも少し関連するのですが、付き合っている人と自分の親が会う、というシチュエーションが、これまで全く無かった気がしています。どうすべきだったのか、ということとは別にして、です。 私としては、付き合っている以上は、その人のことが好きなのであり(純情恋愛的な観)、その人をもっと知りたいのであって、すると、ご両親に会ってみたい気もするのですが、その人がどんな家で、どんな街で育ったのか、という、その環境の息遣いのようなものを知りたいと思うようになります。生まれてから二十歳になるまでそこに住んでいたら、たとえば、自宅の目の前が平坦な道なのか急坂なのか、一方通行の道なのか相互交通の道なのか、そういうところでも人格形成に影響が出てきそうだと思うのです。

 

これ書いてて「実家までストーキングして深夜1時にうちの実家のインターホン押してきた女の子」のことを思い出しました……… 過去のことを思い出そうとすると、ときどき、記憶にモザイクがかかって「ここから先の記憶へアクセスしないでください」と干渉されているような感覚を体験することがあります。 われわれは普段、覚えていることに意味を見出すものですが、忘れることにも意味ってあるんですね………

 

夜も遅いので、寝落ちるまで昔のことを思い出したりしたいと思います。 昔のこと昔の話ばかり、だから年を取りたくないって言ってるんですよ………

 

それでは良い夢を。おやすみなさい。