神の手の中にあるのなら

今年はブログをたくさん書こうと思います(決意表明)

 

きのう友人と話していたとき、「ウェブライター」という単語が登場して、そういえば、世の中には文章を書くことをメインのお仕事としている人たちがいるのだなぁ、と思いました。 どんな文章がよい文章であるのか、ということは分かりませんが、ここ5年くらいで、振り返ると自分はかなり様々な種類の文章を「代筆」してきたなぁと思いまして、これが割と新垣隆さん(佐村河内守の作品を書いてた、ちょっとオドオドした雰囲気の音大の先生、ピアノめっちゃ上手い)状態でして、また代筆もやってみると楽しい作業であったので、ランサーズとか登録しちゃおっかな☆(既に登録だけはしていたのですが)とか、そういう気分になりました。

で、まぁ、前向きな気持ちでブログをたくさん更新したいな、と思ったのと、私はブログを書くという文化が結構好きでして、Twitterで見かけるみなさんもどんどんブログを書いてくださいよ〜〜〜と熱烈に希望しているもので、まぁなんか、書きましょうっ 

 

・1月の話、私生活

 

晦日から三が日にかけて日雇いのバイトをしておりまして、合間を縫って実家に帰り、祖母に「昨日も今日も日雇いの仕事をしてきた」と同情を誘ったことで、お年玉5000円を貰うことに成功しました。労働者以前の問題として、孫としてどうなの???と心は痛みましたが、お米を買って、まぁ本当に慎ましい生活の足しにしているので、ありがとうございます。ということでいいのではないかと、良心を宥めたりして…… 日雇いのバイトをして、小学校や高校の同級生に会ったり、友人と麻雀をやって(七対子で2巡目でリーチをかけた回がほんとうに冴え渡った判断で、麻雀の教科書のようなプレイができましたが、親のリーチドラ3で全部パーになって、これが人生なんだな、と、麻雀というボードゲームに、古代中国人の深遠な人生観を感じずにはいられません…)、浅草でそばを食べたり、財務官僚の話をしたりと、まったりと余暇を過ごしました。

昔、仲の良かった人が、今でも元気そうにしているのを見ると、なんとも嬉しい気持ちになるものであります。とても嬉しい。

ふだんは、正しさとは何か?善とは何か?美とは何か?ということを考えながら淡々と働き、家に帰り、カット野菜を添えた決まりきった夕食を摂り、ひとつ考え事をしてから眠るような、祈りに包まれた生活を送っています。

そのさなかにおいて、やりたいことをやるのが大人であり、やるべきことをやるのが紳士である、と。男に生まれたからには紳士として死にたい、無心でやるべきことをやり、あとは自分の手の届かないところで何かが決定して、現実をただ受け容れて、恬淡と生きる、というようなことをしています。 やらなければいけないことがあるので、まずそのお金を用意立てして、そして、やることをやったら、今年はなにか面白いことをせにゃあなぁ、という気分になっています。 みんながみんな、人生を前に進めていて、そのなかで、誰かがやらなきゃいけないことを私がやらなければならない、という状況がしばしばあり、それは夢の実現でもなんでもないわけです。これを主体性がないと言うのなら、それで構いません。

老いた船乗りシンドバッドが最後の航海へ繰り出すことを決意したような、そのような心境で。 あえて今日だけ総括するなら、本当にとても良い一日でした。

 

神の手の中にあるのなら

その時々にできることは

宇宙の中で良いことを決意するくらい